幼稚園にディベートの時間があるらしい。一瞬ゾッとしたけれど、大人側の都合や子ども達への願いを考えてみました。
教育者の端くれとしての見方
私はある言語教育の分野で国際的な認証を受けています。一応、教育者サイドの考え方もできます。
で、なぜ「一瞬ゾッとした」のかというと、ディベートの本来の目的を子ども達が理解していなければ、「論破したら勝ち」みたいな価値観を持たせてしまうのでは…と感じたからです。
口先だけで言い負かしたらOKで、そのために相手の弱点をとにかくツッコむ、そんな思考になったら嫌だなぁと。
なぜディスカッションではなくディベートを導入したか
そこで思い至ったのが、なぜディスカッションではなくディベートが導入されたのか、という点です。
まずディスカッションとディベートの違いについてだけど、ディスカッションは「討論」と訳され、ひとつのテーマについて意見を述べ合うものです。
たとえば「幼稚園の制服について、どう思いますか」といったテーマに対して、それぞれ「制服があれば他人の身なりと自分を比較しなくて済むからgood」「制服代が高い」「服装で個性を出せないのは窮屈」など、各自が感じていることを発言する場で、明確な結論を求めないこともあります。
これに対してディベートは「YES/NOの対立する意見を戦わせるゲーム」です。テーマは「幼稚園で制服が決められているのはいいことだ」で、YES派とNO派でチームに分かれて意見を出し合います。
あくまでもゲーム(試合)であり、相手の意見をただ否定するのではなく、YES派もNO派も「なぜその結論に至るのか」を重視して主張します。
YES派とNO派の人数合わせのために、内心ではYESだけどNO派のメンバーになったり、出席番号や座席の場所でチーム分けされることもあります。
つまり、論破することや、大きな声で発表することが目的ではなく、さらに高いステップであるクリティカル・シンキングや論理的な考え方、相手に正確に意見を伝える話し方を幼少期から身につけさせようという大人の意図を感じ取ったんです。
そこまで考えている幼稚園(それも公立)があるなんてスゴいですね。うちの近所にはありませんw
私が子ども達に願うこと
子ども達には、たくさんの本を読み、たくさんの経験をして、多様な価値観や文化を知ってほしいです。
そして、余計な先入観も、劣等感も優越感も持たずに、世界中の誰に対しても対等にコミュニケーションを取れるようになってもらいたい。教養は大事。
私自身はド貧乏の家庭に生まれ育ち、高校も大学も国際関係の学部だったのに金銭的な理由で私だけ留学経験がなく、悔しい思いをしてきました。
今はオンラインで博士号まで取れる大学がたくさんある(まだ日本にはないけど)し、ネット環境さえあればいくらでも質の高い教育を受けられます。私も社会人になってからオンラインで大学院の単位を取っています。
やる気と能力さえあれば世界中の人とつながれるし、職業の選択肢も増える。
うちの子ども達の保育園時代はのほほ~んと過ごすだけだったから、ディベートがある幼稚園がちょっとうらやましいなと感じました。